ジョーン・レスリー

1925年1月26日ミシガン州ハイランド・パークに生まれる。出生名はジョーン・アグネス・テレサ・セイディ・ブローデルJoan Agnes Theresa Sadie Brodelアイルランド系でカトリック。父親のジョンは銀行員、母親のアグネスはピアニスト。姉が二人いる。長女はメアリー(1916年 - 2015年)、次女はベティ(1920年生)。姉妹は母親の影響で幼い頃からサクソフォーンバンジョーといった楽器演奏を習い、人前で歌や踊りを披露する。ジョーンは2歳半からそれに加わる。すぐにアコーディオンが弾けるようになる

1930年代半ばに世界恐慌で父親が失業。生活のため姉妹はボードビリアンとしてショービジネス界に入り、カナダ、アメリカをツアーして回る。姉妹はザ・スリー・ブローデルThe Three Brodels)と呼ばれた。児童労働法に抵触するので姉妹は年齢をごまかした。9歳だったジェーンも調査員に16歳と嘘をついた。ジェーンは最年少ながらグレタ・ガルボキャサリン・ヘプバーンモーリス・シュヴァリエザス・ピッツジミー・デュランテルイーゼ・ライナーらの物真似で人気を博した

1936年ニューヨークでの公演中にMGMのスカウトの目に止まる。撮影所と週200ドルで6ヶ月契約を結ぶ。MGMではジュディ・ガーランドミッキー・ルーニーフレディ・バーソロミューら他の子役スターと一緒にLittle Red Schoolhouseに通った

女優としてのデビューはグレタ・ガルボロバート・テイラー主演の恋愛映画椿姫』(1936年)。テイラーの妹役だったが喋っているシーンはカットされ、またクレジットもされなかった。その後は役をもらえず、ディアナ・ダービンとともに撮影所から契約解除された。ジョーンはニューヨークに戻り、ラジオに出たりモデルをやったりした。しかし姉のメアリーがユニバーサルと契約したので、家族でハリウッドに移る。ジョーンはフリーランスで撮影所(主にRKO)で働き出す

翼の人々』(1938年)で小さな役を得るが、母親が13歳だったジェーンの年齢をごまかしていたことに監督のウィリアム・A・ウェルマンが気づき、それ以降の撮影はメアリーに交代させた[13]

最初に名前(ジョーン・ブローデル)がクレジットされたのは『Winter Carnival』(1939年)。南部訛りの女優を探していた監督に抜擢された

15歳の時、ハリウッド監督たちが選ぶ「Baby Stars of 1940'」13人の1人に選出される

ブレイクしたのは1941年ワーナー・ブラザースと契約してから。名前がジョーン・ブロンデルと名前が似ていたのでジョーン・レスリーに改名する

その2週間後、まだ15歳だったジョーンは何の映画かわからずにスクリーンテストを受けさせられる。キュー(合図)と同時に泣くことができたので役を獲得。映画はハンフリー・ボガートアイダ・ルピノ主演の『ハイ・シェラ』(1941年)で、ジョーンは足の不自由な少女ヴェルマを演じた。映画評論家のボズレー・クラウザーは「新人ジョーン・レスリーは小さい役を立派にこなしている」と評価した

その年、ワーナー・ブラザースは第1次世界大戦のアメリカ軍兵士アルヴィン・ヨーク伝記映画ヨーク軍曹』を製作することになり、ゲイリー・クーパーの相手役にジョーンが抜擢された。ヨークの婚約者グレイシー・ウィリアムズ役で、当初ジェーン・ラッセルが検討されたが、ヨーク本人が煙草も酒もやらない女優を希望したのでジョーンに決まった。『ヨーク軍曹』は興行的にはその年の興収トップ、批評的にも大成功した。アカデミー賞では11部門でノミネートされ、クーパーはアカデミー主演男優賞を受賞した 。クーパーは24歳も年上で、「クーパーから人形のセットをもらったわ」とジョーンは後に『トロント・スター』紙で語っている。「彼は私をそういうふうに見ていたの」。

『The Male Animal』(1942年)ではオリヴィア・デ・ハヴィランドの妹役を演じる。ブロードウェイのオリジナル劇ではジーン・ティアニーがこの役を演じている

1942年パラマウント映画の『スイング・ホテル』のオーディションを受けるが、ワーナー・ブラザースは彼女を『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』のジェームズ・キャグニーの相手役に指名する。ブロードウェイのエンターテイナー、ジョージ・M・コーハンの生涯を描いたミュージカル映画、ジョーンはコーハンの妻で野心的な歌手メアリーを演じたアカデミー賞では主演男優賞のキャグニーを含む8部門にノミネートされた。ジョーンはスターとなり、「甘ったるく見えないイノセントな乙女」と形容された

1943年には4つの映画に出演した。『虚栄の花』ではアイダ・ルピノデニス・モーガンと共演。『ニューヨーク・タイムズ』紙は「役がそうであるように器用で何をやらせてもうまい」と評した。『青空に踊る』はRKO作品でフレッド・アステアの相手役。ハロルド・アーレン作曲・ジョニー・マーサー作詞の『My Shining Hour』を歌った。他にロナルド・レーガン共演の『ロナルド・レーガンの陸軍中尉』、『Thank Your Lucky Stars』に出演。

第2次世界大戦中は軍人向けの慰安酒保ハリウッド・キャンティーンで兵士と踊ったり、何百枚もサインするなど、定期的にボランティアをした。ワーナー・ブラザースがそのハリウッド・キャンティーンを舞台に作った『ハリウッド玉手箱』(1944年)に本人役で主演。ただし内容はフィクションでロバート・ハットン演じる兵士と恋に落ちる。この映画には姉のベティ・ブローデルも出演している。

戦後の1946年、『Motion Picture Herald』紙のアンケートで「将来が最も期待されるスター」に選ばれる

ジョーンは撮影所が与える役に徐々に不満を感じるようになる。若さから求められる純情派のイメージから脱却し、よりシリアスな大人の女性を演じたいと思うようになった。その背景にはキリスト教カトリックの道徳観があったようでワーナー・ブラザースとの契約解除を求めて裁判を起こしたワーナー・ブラザースジャック・L・ワーナーは報復としてジョーン・レスリーブラックリストに載せハリウッドのメジャー・スタジオから閉め出した[33]1947年、ジョーンはポヴァティ・ロウ系の小スタジオだったイーグル・ライオン・フィルムズと契約。フィルム・ノワール『Repeat Performance』(1947年)や西部劇『荒原の征服者』(1948年)といったB級映画に出演した。

イーグル・ライオン・フィルムズとの契約終了後、『The Skipper Surprised His Wife』(1950年、MGM)で久々にメジャー復帰を果たす。

1950年3月、産科医のウィリアム・コールドウェルと結婚[7]。翌年1月に双子の娘パトリースとエレンを出産

1950年代は娘の子育てに重きをおき、映画出演は不規則になる。1952年、低予算の西部劇映画を製作していたリパブリック・ピクチャーズと短期間契約アメリカ空軍で活躍した実在の看護婦リリアン・キンケラ・ケイルの伝記映画『女の戦場』に主演する。最後の映画出演は『The Revolt of Mamie Stover』(1956年)。しかし、テレビには子育ての合間をみて散発的に出演を続ける。『Fire in the Dark』(1991年)を最後に引退。

2015年10月12日ロサンゼルスで死去。90歳だった。 ホーリー・クロス墓地に埋葬された。